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2009年10月21日水曜日

坂本龍馬の写真すごいよね











これが一番有名

坂本龍馬が右手を懐に入れているのは

「寺田屋事件」で伏見町奉行所配下の襲撃を受けた時に

龍馬は右手を刀で切られたとされています

龍馬はその傷をかばうことから

懐に手をいれるクセがついたとされています

そこであのポーズになったのでしょうか

坂本龍馬の名言って

坂本龍馬の言葉「竜馬がゆく」より

私が好きなのを抜粋

「人生は一場の芝居だと言うが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で、自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、その上で芝居をするのだ。他人が舞台をつくってはくれぬ」

「人の一生というものは、たかだか50年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発してはいけない。たとえその目的が成就できなくても、その目的の道中で死ぬべきだ。生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない」

「相手を説得する場合、激しい言葉をつかってはならぬ。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。」

「人間というものはいかなる場合でも好きな道、得ての道を捨ててはならんもんじゃ」

「男子はすべからく酒間で独り醒めている必要がある。しかし同時に、大勢と一緒に酔態を呈しているべきだ。でなければ、この世で大事業は成せぬ」

「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」

坂本龍馬の年表を簡単に

◇1835年 (天保六年)
土佐の国高知、町人郷士坂本八平の次男として生まれる

◇1853年 (嘉永六年)
江戸に行き北辰一刀流の千葉道場に入門する

◇1858年 (安政五年)
北辰一刀流の免許を受ける
土佐に帰国する

◇1861年 (文久一年)
武市半平太のつくった土佐勤王党に加わる

◇1862年 (文久二年)
土佐を脱藩し長州へ向かう
九州や京によって江戸へ行き千葉道場に滞在する
勝海舟の弟子となる

◇1863年 (文久三年)
脱藩の罪を許される
神戸海軍操練所の塾頭になる
帰国の命令に従わずに再び脱藩する

◇1864年 (元治一年)
楢崎お龍と知り合う
薩摩藩の西郷隆盛と知り合う
海軍操練所が閉ざされる

◇1865年 (慶応一年)
西郷隆盛と共に鹿児島へ行く
長州に行き桂小五郎に薩長の和解を説く
長崎に亀山社中をつくる

◇1866年 (慶応二年)
龍馬の仲立ちで京で薩長同盟が成立する
伏見の寺田屋で幕府の役人に襲われる
ユニオン号を率いて幕長戦争に参加する

◇1867年 (慶応三年)
脱藩の罪を許され海援隊の隊長となる
後藤象二郎と共に京に向かう船中で大政奉還の「船中八策」を考える
岩倉具視に会う
大政奉還後「新官制案」や「新政府綱領八策」をつくる

11月15日 夕方、近江屋に中岡慎太郎が来訪し岡本健三郎・菊屋峰吉も来る
午後9時ごろ岡本・峰吉は所用のため外出する
その直後刺客に襲われて闘死する
(享年33歳)

坂本龍馬がNHKの来年

NHKドラマホームページより

福山雅治さんの言葉

この度、縁あって『龍馬伝』という大きな

プロジェクトに参加させていただくことになりました。

2010年という時代に向けて重要なメッセージを

発信するであろうこのプロジェクトに声を

かけていただいたことを、驚きとプレッシャーとともに

大変光栄に感じています。

既にさまざまな作品を通じて普遍的ヒーローとしての

イメージを持たれている「坂本龍馬」ですが、

これからの一年をかけて十分な準備をし、

2010年という時代だからこそ、

そしてこのスタッフだからこそ表現することができる

「坂本龍馬」を作り上げてみたいと思います。

我々の挑戦にご期待ください。

坂本龍馬の家紋は



坂本龍馬の家紋は組み合い角に桔梗紋といいます

食い違いにした「角」の中に桔梗を描いています

本家は紀姓大濱氏で家紋も丸に田の字紋と違っていました

八郎兵衛正禎の時に太郎五郎が分家して

坂本を称したものと思われます

龍馬は正禎の死後約100年を経て誕生することになります

おそらく桔梗紋も分家を立てるにあたって

新たに設けたのではないでしょうか

坂本家初代の太郎五郎の墓石には山城国生まれで

弘治・永禄年間(1555~1570)に畿内から

移ってきたことが記されていいます